「一周忌だから、法要をしなければ」 「うちは檀家だから、お寺で法要をお願いするのが決まりだ」
私たちは、法要(法事)を、慣習や、やらなければならない義務として、捉えてしまうことがあります。 もちろん、古くからの伝統や、お寺と檀家様との大切なお約束を守ることは、非常に尊いことです。
しかし、その形式や立場にとらわれるあまり、私たちは、法要という時間が持つ、本当に豊かで、温かい「意味」を見失ってしまうことがあるのかもしれません。
檀家であるか、そうでないか。そのこと以上に、故人様と、そして、今を生きる私たちにとって、法要を、より深く、意味のあるものにする「三つの心」があります。 今回は、愛知県小牧市の祥雲寺が、その大切な「心」について、お話しいたします。
一つ目の心。「ありがとう」を伝える、感謝の心
法要という時間は、第一に、故人様へ「ありがとう」を伝えるための、感謝の時間です。
その方が、この世に生を受け、私たちと出会ってくれたことへの感謝。 共に過ごした、かけがえのない思い出への感謝。 そして、その方の存在があったからこそ、今の私たちがここにいるという、いのちの繋がりそのものへの、深い感謝。
普段の生活の中では、照れくさかったり、改めて口に出す機会がなかったりする、その感謝の気持ちを、仏様の前で、手を合わせ、お経という清らかな音に乗せて、故人様へとお届けする。 それが、法要の一つ目の、そして、最も大切な心です。
二つ目の心。いのちの「つながり」を、再確認する心
法要には、ご家族やご親族といった、故人にゆかりのある人々が集います。 なぜ、私たちは集うのでしょうか。
それは、故人という、一つの大切な存在を中心として、私たちが、決して一人で生きているのではない、という「つながり」を、再確認するためです。
亡き父母を偲び、その子どもや孫たちが顔を合わせる。それは、過去から現在、そして未来へと続く、大きないのちの流れの、まさに中心に、自分たちがいることを実感する、貴重な機会です。 この「つながり」を感じることこそが、私たちに、生きる上での、揺るぎない安心感と、心の拠り所を与えてくれます。
三つ目の心。自らの「生き方」を、見つめ直す心
そして、法要は、ただ故人を偲ぶだけの時間ではありません。 故人の生き様を思い返すことを通じて、私たち自身の「今の生き方」を、静かに見つめ直すための、鏡のような時間でもあります。
「おじいちゃんなら、今の私を見て、何て言うだろうか」 「母が、私に一番望んでいたことは、何だっただろうか」
故人のまなざしを通して、自分自身の現在地を確かめる。そして、「明日から、また、より良く生きていこう」と、心を新たにする。 亡き人から、生きる力をいただく。それこそが、法要が持つ、もう一つの深い意味であり、故人様が、私たちに遺してくれた、最大の功徳(くどく)なのです。
おわりに
「感謝」「つながり」「自己との対話」
この三つの心が集う時、法要は、単なる儀式や義務を超え、故人と、そして、生きる私たち自身の双方にとって、かけがえのない、魂の栄養となります。
そして、この尊い心に、檀家であるかどうか、といった区別は、一切ありません。 私たち祥雲寺の役目は、この三つの心が、穏やかに、そして豊かに育まれるための、清らかな「場」と「時間」をご提供することです。
愛知県小牧市で、大切な方の、心からのご法要を営みたいと願う、すべての方へ。 どうぞ、その尊いお気持ちを、私たちにお聞かせください。